英語耳のススメ

英語のヒアリングがまったくもって上達しなくて
ずっと放置していたのだけれど
最近一念発起して再びチャレンジを始める。


小林秀雄の「考えるヒント」の「言葉」という文章でつぎのような感動的な考察があった。

生活するとは、人々がこの似せ難い動作を、知らず識らずのうちに、限りなく繰り返す事だ。似せ難い動作を、自ら似せ、人とも互いに似せ合おうとする努力を、知らず識らずのうちに幾度となく繰り返す事だ。その結果、そこから似せ易い意が派生するに至った。これは極めて考え易い道理だ。実際、子供はそういう経験から言語を得ている。言葉に習熟して了った大人が、この事実に迂闊になるだけだ。言葉は変わるが、子供によって繰返されている言葉の出来上がり方は変わりはしない。子供は意によって言葉を得やしない。真似によって言葉を得る。この法則に揺ぎはない。大人が外国語を学ぼうとして、なかなかこれを身につけることが出来ないのは、意から言葉に達しようとするからだ。言葉は先ず似せ易い意として映じているからだ。言うまでもなく、子供の方法は逆である。子供にとって、外国語とは、日本語と同じ意味を持った異なった記号ではない。英語とは見た事も聞いたこともない英国人の動作である。これに近附く為には、これに似せた動作を自ら行うより他はない。まさしく習熟する唯一つのやり方である。


さらに続いて

例えば、「お早う」という言葉を、大人風に定義して意味するのか、それとも、という具合で切りがあるまい。その意を求めれば切りがない言葉とは即ち一つの謎ではないか。即ち一つの絶対的な動作の姿ではないか。従って、「お早う」という言葉の意味を完全に理解したいと思うなら、(理解という言葉を、この場合も使いたいと思うなら)「お早う」に対し、「お早う」と応ずるより他に道はないと気附くだろう。子供の努力を忘れ、大人になっている事に気附くだろう。その点で、言葉にはすべて歴史の重みがかかっている。或る特殊な歴史生活が流した汗の目方がかかっている。昔の人は、言霊の説を信じていた。有効な実際行為と固くむずばれた言葉しか知らなかった人々には、これほど合理的な言語学はなかった筈である。私達は大人になったから、そんな説を信じなくなった。しかし、大人になったという言葉は拙いのである。何故かというと、大人になっても、やっぱりみんな子供である。大人と子供とは、人性の二面である、と言った方が、真相に近いとも思われるからだ。これに準じた言葉にも表と裏がある。ただ知的な理解を極めてよく応ずる明るい一面の裏には、感覚的な或は感情的な或は行動的な極めて複雑な態度を要求している暗い一面がある。


これを読んで
ミラーシステムについて言及している!とか、
レイコフの身体性に基づいた言語学よりずっと前に同じことをいっていたのか?とか
小林秀雄はこの言語観をどうやって得たのだろうか?とか、
本居宣長がすでにそういう言語観に達していたのか?とか
ってか、哲学的な思考ができる人ならふつうに気づくことなのか?とか
たくさん考えたいことはあるのだけれど、
なによりもここから


「言語とは運動である」


という深い確信が芽生えて
もう一度ヒアリングにチャレンジすることにする。




教材として選んだのは松澤喜好さんの「英語耳ドリル」で
松澤さんは一つの歌を300回聴くというメソッドを
提唱していて、
最初の100回は耳慣らしでただ聴くだけ。
次の100回は発音記号つきの歌詞を見ながら聴いて
発音記号と発音を対応させるべし。
最後の100回は、自分で声に出して歌う。
というシンプルな内容で
簡単な運動を繰り返し練習するというプロセスが
スポーツにおける運動の獲得方法とまったく同じだと思い
これをすることにする。


先週とりあえず100回聴いて
つぎの100回をやろうとしたら
発音記号をマスターしてないことに気がついて
先週末は「英語耳」で43個の子音と母音の
発音方法を辛抱強く勉強したのだけれど
これがめちゃくちゃ面白い!


一つ一つの発音記号には、
正しく発音する方法があって
舌の位置と動かし方、息の出し方を
一から勉強すると
いままでまったく未知の
舌と息が連動したダイナミクス
英語を発する口のなかでは繰り広げられていることに
はっきりと気がついた。


この感覚はやってみないと共有できないと思うのだけれど、
例えばテニスで練習して正しいフォームをみにつけることで
いつもボールをミートできるようになったときの快感と同じように
正しい舌と息の運動によって正しい発音ができたときの
快感というものがある!


一音一音正しい舌の動きをしようとすると
ひとつの単語を発音するだけでもすごい労力がかかって
舌をつりそうになるんだけれど
そうやって発音してみると確かにネイティブっぽい発音になっていて
初めて逆上がりができたときの喜びみたいなものがあった。


そして、この労力と注意深さでもって、
すべての単語というのは発音しなくてはいけないものなのか、と思うと、
それは、意味だけではなく、新しい運動のイメージを
一つ一つの単語に新しく貼りつける必要があることを意味していて
いままで既知だと思っていた土地が
突然広大な未知の大陸に変わるような感覚がして面白いと思った。


まだ現在進行形だけれど
英語が苦手な人にはおすすめ。
同志モトム。




そんな一日の夜、スペクタルな夢を見た。
都市の上空(たぶん高度500mぐらい)を電車が走っていて
電車のなかは普通に通勤電車の風景なんだけど
窓から眼下には、高層ビルから見えるような
東京の街並みが広がっていて、
そのなかに一本だけ高い塔が立っている。


おれのミッションはなぜか走っている電車から
その塔に向かって火の玉を投げて、塔にてっぺんから出ている
導火線に火をつけなくてはいけないということになっていて
塔が真下に見えたときオレは電車の窓から塔にむかって火の玉を投げた。
玉は落下していくのだけれど、慣性の法則を考慮せずに投げたためか
玉は塔から右に外れていく、、失敗した!と思った瞬間、
火の玉が破裂して、花火みたいに広がった火の粉が
塔の導火線に火をつけて(なんて都合のいい展開!)
そうしたら塔から空中に向かって花火が打ち上げられて
電車のなかから、球状に広がる大きな花火を見た。


夢の中なんだけどミッションコンプリート!みたいな
高揚した気分になって目が覚める。


ふだんはこんなスペクタルな夢をまったく見ないので
これは脳が英語耳体験の興奮を
別の物語を通して解釈した結果なのかもしれない
と思った次第。


おしまい。