五月

久しぶりの日記。
さまざまなものが頭を過ぎ去っていったんだけれど、
言葉にできない病。


カンブリア紀みたいな進化の爆発が起きたときに出てくる
多様性に満ちた生物群のことをhopeful monsterといって、
ボスが芸大の授業で、我々ひとりひとりがhopeful monsterなのだ、
といっていたけれど、
いまの気分はオパビニア。
進化の袋小路にはまったレッドリスト入り絶滅危惧種


要は、あたまの中のモードが、行き止まり感で満ち満ちていて、
これはどうしたものかな。。と思っているうちに
気がつくと五月がおわりかけている。


生物の進化可能性と、脳の創造性の関係を
考えることはおもしろい。


生き物は、進化することによって、
過酷な環境の変化に適応してきたのだけれど、
1人の人間の脳はどうなんだ?という問題。
1コの脳は、過酷な環境下で、いかに適応していくのか?
生き物の進化のように世代をバトンして適応して
いくわけにはいかない。


というようなことが、我が身の切実さによって、
頭からはなれずに、ずっと考えていたら、


ふと、生物の進化可能性に対応する脳のアナロジーは、
養老さんがいっている、自分が変わる、ということなのではないか?
と思い当たる。


生物が、遺伝子の組み替えによって、非線形かつ劇的に
適応性をアップさせるように、
脳は、神経系が生みだす「自己」を再構築(?)することによって、
劇的に適応性をアップさせる。。


養老さんの「無思想の発見」にかいてあった文章がとてもよくて
以下抜粋。

・・・未知がイラクにあるのではない。「自分が同じ」だから、世界が同じに見えるのであろう。それで「退屈だ」なんで贅沢をいう。知らない環境に入れば、自分が変わらざるをえない。だから未知の世界は「面白い」のである。
 「変わった」自分はいままでとは「違った」世界を見る。自分が変われば、世界全体が微妙にずれて見える。大げさにいうなら、世界全体が違ってしまう。それが「面白い」。つまり「未知との遭遇」とは、本質的には新しい自分との遭遇であって、未知の環境との遭遇ではない。そこを誤解するから、若者はえてして自分を変えず、周囲を変えようとする。・・・・自分で自分を変えればいい。そのノウハウを覚えたら、天下無敵ではないか。随所に主と作り、行住坐臥、どこにいたって楽しむことができる。・・・

世界全体が違って見える、とか、未知との遭遇は新しい自分との遭遇
あたりが個人的にはグッとくるんだけれども、


そういえば、
ボスがいっている「super nova」と
ベイトソンのいっている「学習Ⅲ」は、
このことかなと思う。


そんなことを考えた日の夜、夢を見た。


畳の部屋。オマケイと一緒に正座していて、
目の前に養老さんが座っている。
おれ:「自分が変わるっていうことの本質はなんですか?」
養老さん:「正解がないことだね」
なるほど!と思って、その夢は終わる。


起きたあとで分析してみると、その夢の1日前にボスの
講演をきいていて、不確実性における学習には正解がない、
というはなしが、自分のなかでは印象的で、
それらが融合して夢のなかに出てきたっぽい。


まあ、とにかく、そんなことを考えていたら、
なにかがふっと変わったきがして、
最近、テンションが上がってきて、
また難しい問題に挑戦しよう、と思う。