受胎告知とお花見

お花見をしに上野公園へ。


時間があったのでまずダ・ヴィンチの「受胎告知」を見る。
混んでいたけれど、二列目の壁ぎわに生じたよどみにまぎれて
30分ぐらい居座ってずっと眺める。


初めて見たとき、まず素朴に「おおおー」と思う。
なにが「おおおー」なんだと考え始めると
まず天使カブリエルの服のシワシワの質感がすごいことに気づく。
真ん中に置いてある置物の装飾の質感もすごいことに気づく。


カップルで来ている人々は必ず二人で感想を言い合う傾向があって
「○○がすごいねー」と言って去っていく。
「天使の肌がきれー」とか、「服がすごいねー」という感想が多かった気がする。


耳を澄ましていると
「マリア様の表情って悲しんでいるのかなー、喜んでいるのかなー、
どちらかというと喜んでいるよね」
と言っているのを聞いてはじめて表情をまじまじと見る。
悲しいとか嬉しいとかではなくて、運命を受けいれた顔のように見えた。
(と同じことが後で美術館の外のテレビの解説を見たら言われていた)


さらに耳を澄ましていると、
「光がすごいねー」という感想が聞こえてきて
そこで初めて空間全体に存在している光の明暗の質感に気づく。


なにか新しい視点に気づくたびに、絵全体を見直して、
そのたびにいろいろな気づきがあって
見方がガラガラっと変わる感覚が面白いと思った。


天使の服のシワシワを見ながら、現実よりもリアルに見えるこの感じは
なんなのだろう?と考えていたら、ふと、
保坂さんの「書きあぐねている人のための小説入門」の以下の記述を思い出した。

保坂和志 「書きあぐねている人のための小説入門」より抜粋
 哲学は、社会的価値観や日常的思考様式を包括している。小説(広く「芸術」と言うべきだろうが、いまはあえて「小説」とします)も、社会や日常に対して哲学と同じ位置にあり、科学も同じ位置にある。つまり、哲学、科学、小説の3つによって包含されているのが社会・日常であって、その逆はない。
 だから小説は日常的思考様式そのままで書かれるものではないし、読まれるべきものでもない。日常が小説のいい悪いを決めるのではなく、小説が光源となって日常を照らし、ふだん使われている美意識や論理のあり方をつくり出していく。


芸術の役割とは、作品が光源となって日常を照らして
普段まったく気づいていなかったことに気づかせてくれることで
本当はありとあらゆるものはダ・ヴィンチの視覚を借りれば
天使の服のシワシワと同じぐらい活き活きとしたリアルな質感に満ちていて、
そのことをダ・ヴィンチの絵は教えてくれる・・・・


と思ったら外に出たときの桜の見え方が変わった気がした!
光の加減とか、その質感に注意が向くようになった。
(ウエダ君によるとそういう見方を学ぶことが、デッサンの目的らしい。。)


その後、ダ・ヴィンチの生涯の活動の展示を見る。
力学とは?遠近感とは?光とは?人体とは?調和とは?均衡とは?感情とは?・・
ダ・ヴィンチがもった様々な問題意識を分解して展示していて
おもしろかった!


養老さんが「考える」とは、
対象を「バラバラにしてつなげる」ことだと言っていて
ダ・ヴィンチはありとあらゆるものをバラバラにしたのだと思った。
光とはなにか?輪郭とはなにか?筋肉とはなにか?・・
「自然」と「人間」を徹底的にバラバラにして、
それぞれを科学者の思考によって突き詰めて
絵のなかで、それらを統合した。


そして養老さんによるとなぜかいったんバラバラにするというプロセスを経由して
統合したほうが、はじめから作品をつくるよりも、力強くなるらしい。

スマナサーラ 養老孟司 「希望のしくみ」より抜粋
 一つひとつの過程を「素の過程」と言います。素の過程は、数はたいしてないんです。だからきちんと分けて、それから合成してやることです。すると最初から混ぜるより、はるかに力が強くなります。なぜだが知らないけど、有効になるんです。たぶんそれは、訓練のいちばん基本だと思う。斜めにやるほうばっかり訓練しても、たかが知れているんですよ。まず、きちんと分けることが大切なんです。なにしろもともと斜めにできていないんだから。


ダ・ヴィンチの受胎告知をいつまでも見ていたいと思う気持ちの背後には
要素を徹底的に突き詰めたあとで統合することによってしか生まれない
圧倒的な多様性とか豊かさがあるのだと思った。


保坂さんの「書きあぐねている人のための小説入門」によると
保坂さんも、さまざまなことをバラバラにして、それらを突き詰めて
小説のなかでそれらを統合しているらしくて
これも「バラバラにしてつなげる」ってことなのではないか!?と思ふ。

保坂和志 「書きあぐねている人のための小説入門」より抜粋
 小説のインデックスに「テーマ」という欄があったとして、そこに何かもっともらしいキーワードを書き込むことはしなくても、日頃考えていること(たとえば「世界とは何か?」「生命とは何か?」ということ)は山ほどあるわけで、それらが全部、小説のなかに入ってくるというか、書きながらそれらの中からいろいろなものを選んでいけるので、選択肢を一挙に広げることができる。


その後、花見へ。
ウエダ君が朝の十時から場所取りをしていてくれたらしい。
とにかくすごい人の数で、桜並木の通りは、いつも渋滞していた。
でも桜が満開できれいなので、5,6回その通りを歩く。
時折、強い風が吹いて、大量の花びらが空から雪みたいに舞いながら降ってきて
その幻想的な眺めをずっと見ていたい、と思った。