進化の学会

いつのまにか9月。
進化学会でボスの代打ではなすことになり
8月は進化学会の準備で潰れた。


意識における進化の収斂というテーマのもと
無脳症の赤ちゃんは皮質がなくても意識があるようにみえる
鳥はvisual awarenessをもっているのか
タコは賢いけど意識があるのか
これらに共通の意識が生まれる神経機構はあるのか
について考えてはなしてきた。


複雑系コミュニティのひとたちは
意識を時間の側面から捉えていると思う。
一方、脳科学者は、意識があるときは
ココとココが活動した、みたいな脳計測の図をいつもみているので
気づかないうちに意識を空間的イメージで
考えてしまっているのではないか?と思った。
ということは逆に、
複雑系の研究者は力学系のモデルを研究しているから
時間的な性質に引きずられていると言えるのか?


それと
複雑系の人たちにとって意識とはなにか?という問題は
生命とはなにか?という問題と同義で
ヒトの意識もハエの意識も粘菌も同列のものとして捉えていて
脳の構造にはあまり興味がないように見えた。


養老さんが唯脳論
空間(=構造=視覚)と時間(=機能=聴覚)は相容れないもので
たいてい、ひとりの脳の思考は、どちらかに偏る傾向にある
ということを論じているのだけれど
それってまさにこの問題ではないかと思った。


今回は意識を思いっ切り構造=空間的なものとして考えて
いたことに気がついて、もっと時間的なものについて
考えよう、と思ったのが今回の学会の一番の気づき。
その他にもいくつかの重要なインスピレーションを得る。
断らずに引き受けてよかった。




帰りに智積院にいった。
等伯の「楓図」がよかった。

http://www.chisan.or.jp/sohonzan/keidai/syuzoko.html


等伯の息子が25歳のときにかいた「桜図」もあったのだけれど
その息子は26歳のときに他界してしまって
この世の無常を思った等伯が、
全身全霊を込めて描いたのが「楓図」であるらしい。
現物のふすま絵は色が薄くなっていて、
写真のような色鮮やかさは、感じられなくて
なんでこれが国宝なんだろうと思いながら、でも国宝なんだから
きっとどこかすごいところがあるに違いないと思って
しつこく見ていたらだんだんと「楓図」がすばらしいものに見えてきた!


なにがいいのだろう?と考えていたら、
それは若冲の絵と同じで「生命力」が感じられる
というところに惹かれていて
絵のなかに植物の「生命力」というものをどう描き表すか?
という問題に等伯は立ち向かったんだなーと考えていたら
進化学会で、郡司さんの生命をいかに記述するか?
生命をどんなイメージで捉えるか?という問題意識や
ベルクソンが純粋持続ということばで捉えようとした
脳のなかの生命現象のイメージとか
そういったものたちがあたまのなかでぐるぐる回りはじめて


それらの仕事たちは、
生命をどう記述するか?どうやったら自分には
ありありと感じられている「生命」を、
そのまま失われることなく他人にも感じさせることができるか?
という共通の精神をもった、
異なるチャレンジの成果なのかもしれない、と思った。